ろう石山の廃墟<18.12.1> <事前調査> 群馬県の北西部に、ろう石山と呼ばれる山がある。しかし国土地理院の地形図には記されていない。その昔、ろう石を掘削したことから関係者が名付けた名前であるからだ。ここに、ろう石を焼いて、耐火煉瓦の原料を生産していた、焼成炉の廃墟が山の中に静かに眠っている。訪れる人はあまりない。僕は何年か前に地元の新聞か何かで読んで、面白い物があるんだな〜とは思ったが、訪れる機会を掴めないでいた。あえて理由をいえば、その場所を明確に示す情報が得られなかったということだろうか。当時は勤めの身で、それを調べるには、かなりのエネルギーを要するので手をつけられなかったのだ。リタイヤした今ではそれが可能となった。何よりもインターネットで何でも知り得る時代になったことが、訪問を可能にしてくれたのである。 しかし、検索サイトで情報を得ようと思っても、キーワードが思いつかなかった。この時点では、「何かの鉱石を焼いた溶鉱炉が、群馬県嬬恋村の山中にある。」というかすかな記憶だけで、ろう石という文字の記憶は消えていたのである。 そこで群馬県立図書館に調査を依頼した。同館のホームページに「調査相談」のコーナーがある。レファレンスフォームに質問事項を書き込んで送信すると、翌日には返信をいただいた。嬬恋村誌からの抜粋と、関連サイトが記されていた。その結果、焼成したものは「ろう石」であることが分かったのである。そこから得られるキーワードによって、他の関連サイトにも次々とヒットした。 しかし、その場所を特定できる情報は得られなかった。そこで嬬恋村に問い合わせたところ、国有林につき、森林管理者に聞いて欲しいとのことであった。結局、関東森林管理局吾妻森林管理署の好意によって、その場所が特定できたのである。さらにルートの注意事項と入林の手続について、懇切丁寧なアドバイスを頂いた。そんなわけで、僕たち夫婦による廃墟への探検が可能となったのである。 もう一つ嬉しいことには、関連サイトに「浅間山ミュージアム」があって、事務局の飯田さんが現地のガイドを買って出てくれたのである。僕たちは恐縮しながら素直にお受けして現地に赴いた。しかし連日降り続いていた雨はやむ気配がなく、嬬恋村役場の待合室をお借りして、机上のレクチャーを受けるにとどまった。これには役場の課長補佐Sさんも加わって、現地の状況がかなりイメージ化できたのである。 <ろう石とは> ろう石について予備知識を得ると、おおむね次のとおりである。陸上に噴出した流紋岩や安山岩などの溶岩と凝灰岩類が熱水変質したもので、白色または灰白色をした鉱物であるという。鉱床は、他の鉱物と混ざった状態で産出することが多い。触るとロウソクに似た、ぬるぬるとした感触があって柔らかい。蝋石と呼ばれるゆえんである。耐火煉瓦・上質紙のコーティング・塗料・化粧品などの原料にとどまらず、身の回りにおける、かなりの分野に幅広く使われている。用途が広い割にそのことに気が付かないのは、成分表として記載する必要がない性質のものだからであろうか。 18世紀末の近代製鉄業の発達とともに、耐火物原料として使用され、その後は各種工業原料として用途が拡大した。古いデータであるが、1992年には、日本は世界最大のろう石生産国であったというのだ。 僕の実家は雑貨屋で、子供の頃には、石筆(せきひつ)という呼び名で売っていた。コンクリートの床に、絵や文字を描いて遊んだ頃が懐かしく思い出される。村の鍛冶屋さんも確か寸法取りに使っていたような記憶がある。 <現地に入る> 森林管理署からいただいた資料から、国土地理院の1/25000地形図に必要事項をプロットし、現地図を作成した。入山に当たっては、森林管理署の出先機関である大前森林事務所の許可を得た。標識は一切なく、僅かな踏み跡を外れないように地図を頼りに辿った。今回は、浅間山ミュージアムの飯田さんにガイドをして貰うことはご遠慮した。前回のレクチャーで自信がついていたからだ。 僕達は探検の時期を、落葉樹がすべて葉を落とした頃が最適であろうと決めた。これだと森林の中でも見通しがよいからである。かつ週間天気予報でお日様マークのときとした。それが12月1日となったのだ。 ここで気掛かりだったのは、ハンターに熊と間違われて撃たれないようにすることだった。11月15日が解禁日になっている。森林事務所からは、24人のハンターが登録されているので、目立つ服装で入林するようにとのアドバイスを頂いた。僕たちは上着を赤いものにし、サバイバルホイッスルを首にぶら提げて現地に向かった。 現地の干俣(ほしまた)はよく晴れていた。キャベツ畑はすでに収穫が終わって、黒々とした大地が本白根山を控えて冬の到来を待っている。山の頂が白くなる日も近い。
県道112号を北上し、干俣川に架かる橋をいくつか渡って支流に入る。農家の出小屋を最後になだらかな林道を奥へと進む。紅葉も終り、まだ枯葉をつけた広葉樹が多い。
しばらくは車も通れる道が続くが、そのうちに笹が生い茂る道に変る。両側に山の斜面が迫ってくると、倒木と蔓性のブッシュのために、ところどころ迂回を強いられる。そのようなところには、白い布きれが付けられている。浅間山ミュージアムの人達が道しるべとして付けたのだろうか。
湿潤している道になった。湧き水のようだ。ところどころぬかるみを避けるために、あえてブッシュのなかに足を踏み入れる箇所もある。ブッシュが密生していて見通しが利かない箇所は、熊に遭遇しないように何度かサバイバルホイッスルを吹いた。 間もなく右手に沢のせせらぎが聞こえ、小さな沢に出た。酸性の水でなければ岩魚が棲んでいるかもしれない。昔ここには橋が架かっていたであろう。
沢を左岸に渡ると、斜面は緩い傾斜の広がりを見せて、葉の落ちた林間が遠くまで見通せる景観となった。青空の下に山の頂が見える。道の脇に四角のレンガ積みと運搬車の車軸があった。これがろう石採掘と関係するのかは不明であるが、たぶんそうではないかと思えた。後で分かったことであるが、当時のろう石作業場の門柱であるという。その先には、国有林の管理標があった。「熊四郎山国有林・・・」とある。
笹の背丈が高くなり、葉が目の高さになって視界の邪魔をするので、しばらくは道から外れて林の中を歩いた。これは夏山と違って、葉の落ちた冬期間の醍醐味である。遠くまで見通せて、しかも樹木の姿形の美を堪能できるからだ。晩秋の森林は小鳥の姿も声もなく、静寂を保っている。 気が付いたら林間を透かして、陽光を浴びた焼成炉が遂にその姿を現した。時間は10時02分、その雄姿を屹立させて燦然と輝いている。圧倒されたように、しばし漫然と見とれていた。あたかも2本の特大ビール瓶を並べたモニュメントのようにも見える。
漸く我に返り、焼成炉の観察を開始した。2基とも煉瓦積みは、ひび割れもなくしっかりしている。川上側が1号炉、川下側が2号炉である。2号炉には首輪のようにレンガのリングが施されている。他にも細部に亘ってデザインの違いが見て取れる。炉の周囲は、鋼鉄製の箍(たが=バンド)が巻かれている。鉱石の投入口と同じ高さで、山の斜面に道がある。ということは、投入口と道との間は、桟橋で結ばれていたであろうことは、容易に想像がつく。
取出口は谷側を向いている。投入口と反対側にすることが安全上、利に叶っているし、作業広場も確保できる。平断面の中心点振り分け120度の位置に、取出口とほぼ同様の穴がほかに二つ設けられている。補助的な取出口と吸気口を兼ねているのであろう。 取出口をよく見ると、煉瓦積みは二重になっていて、外側の赤煉瓦に対して内側は白い。耐火煉瓦を採用しているのだ。取出口にはクリンカーが残されていた。
取出口の前は、作業広場を確保する為に、沢に沿ってコンクリート製の擁壁が設けられている。かつ、排水目的の為だろうか、トレンチを設けた構造になっている。 商標らしきものと文字が刻印された、レンガのかけらが落ちていていた。製造者は品川白煉瓦会社ではないかと思われる。菱形にSSのロゴ、文字はSHINAGAWAの赤字の部分が見てとれる。
採掘場はこの上方にあると聞く。沢に沿って歩くことにした。蔓性のブッシュが密生しているが、それを踏みつけて前進する。石垣を築いた箇所が沢に沿って点在する。石垣の下は運搬道であり、上は土塁の広場になっている箇所もある。採掘場と焼成炉の間を行き来するトロッコの情景が浮かんでくる。
もう山には木の実はなくなって、動物が食べるものは少なくなった。突然、石垣の上の方にテンを発見した。黒や褐色ばかりの山の斜面を、黄色い冬毛が派手に見える。テンは果実やネズミ類などを捕食するそうだ。くねくねと何かを探すように動き回っている。地中の虫でも探しているのだろうか。それにしても、しなやかな身体の動きである。どうも僕たちの姿が目に入らないらしい。カメラを出そうと思っているうちに、斜面の向うに消えてしまった。近くにはカモシカの糞もあった。木の間ごしに遠くに畑が見えるのも、葉の落ちた今の季節だからである。
更に先へ進むと、2本の木杭があった。これも当時のものだろうか。左側の奥には崩れた洞穴が見えるが、いったい、この場所が何に使われたのか、皆目見当がつかない。沢の縁には鉄管が残っていて、水道管のように思われる。採掘場よりも上流側からきれいな水を焼成炉まで敷設したのだろう。
更に登るとまた石垣だった。その上にあがってみると、かなり大きな広場になっている。いよいよ採掘場に近づいたらしい。
土塁の先端まで行くと、前方が開けて、すり鉢状の地形になっている。どうやら、ここを採掘場と断定してよさそうだ。山側の急斜面は裸地状態になっている。ところどころに木は生えているが、褐色の地層であったり、白色の地層であったりする。それにしても斜面の状態は明らかに人の手によって削られた感じがする。右手に滝が落ちているが、自然に侵食されたというものではなく、削られた斜面を流れ落ちているという感じである。
滝から落ちる水は僅かな水量であり、すり鉢の低い方にチョロチョロと流れている。直ぐ下が沢の出会いである。露天掘りによって山の斜面が削られた廃鉱なのだ。 <ろう石山の歴史> この物語は、昭和15年(1940)、この地の炭焼き夫が、炭がまを造ろうとしていて、ろう石を見つけたことに始まる。そして有志何人かで試掘を行ない、この場所は、ろう石山と呼ばれるようになった。 そもそも、嬬恋村は草津白根火山帯に属しており、硫黄の採掘が早くから行なわれていた村である。火山活動に伴い、ろう石は変質帯が発達して生成したことは後から裏付けられた。 太平洋戦争勃発とともに、ろう石にアルミニウムが含まれているため重要視され、昭和18年(1943)、その採掘は軍需産業として指定された。以来、日窒鉱業が上信鉱山として、採掘することになる。 昭和19年(1944)には、約250人の労務者が採掘に動員された。その中の3割は朝鮮人であったという。始めは労務者を民家に分宿させながら、本沢に現場事務所や飯場を建設して採掘場を整備した。ピーク時の産出量は、年間15,000トンにも達した。しかし、昭和20年(1945)の終戦によって、採掘はあえなく停止された。 9年の歳月を経て、昭和29年(1954)ろう石の採掘が再開された。群馬県吾妻郡中之条町の実業家小渕光平(おぶちみつへい)によって、光山電化上信鉱業所が設立されたのである。 小渕は、極貧の家庭に生まれ、小学校しか出ていない身であったが、19歳で小渕製糸所を創業し、群馬県随一の製糸会社に成長させて、早くも大物の片鱗を見せつける。昭和8年(1933)に光山社(こうざんしゃ)と改名し、光山社グループを一代で築き上げた人物だ。ちなみに小渕光平の次男が、元内閣総理大臣の小渕恵三である。 光山電化は、専ら耐火煉瓦の原料として採掘し、日本鋼管会社などに出荷するなど活況を呈した。昭和32年(1957)には、焼成炉を2基設置した。焼成は、生(なま)鉱石中の結晶水を放出し、収縮と膨張の変化を防ぐためのものである。焼成には、燃料のコークスを使用した。 焼成作業は、三交代勤務で行なわれた。30人いた常用労務者の年間支払金は180万円、10人いた臨時労務者のそれは60万円であった。ろう石を選別したり運んだりしたのは女性達である。 ろう石の耐火度を示す指標としてSK値がある。ここで採掘されたろう石はSK値35であり、1,770℃まで耐えられる良質鉱であった。SK値が高いほど耐火度が高く、ちなみにSK37は、1,825℃に耐えられるという。焼成品の出荷先は、大阪窯業・東京窯業多治見工場・品川白煉瓦であり、生鉱は日本鋼管であった。 しかし、昭和38年(1963)に火災が発生し、鉱山事務所や宿舎が焼失した。たまたま鉱脈も尽きかけていて、労務者も4〜5人に減っていた。これを機に、再開発後9年間の短い生涯を終えてろう石山は閉山したのである。 焼け落ちた跡は、山林が自然回復した。当時を物語るものは、僅か6年の短命であったとはいえ、今となってはシンボル的存在となった焼成炉だけとなった。 焼成炉の築造工事を請け負ったのは、高崎市の株式会社-小林タイル。1号炉は祖父と20歳の孫の合作で、2号炉は孫が作ったという。この記事を書くに当たって、そのお孫さんである小林弘氏(74歳)に当時のお話をうかがった。現在は同社の会長であり、かくしゃくとして多方面に活躍しておられる。懐かしそうに聞き取りに応じてくれた。 焼成炉は、高さ14m、直径4m。専門用語ではシャフトキルン(shaft kiln)と呼ばれる縦型焼成炉である。設計は東京工業大学の福井氏であるという。氏に関するデータは少ないが、次の論文が見つかった。 鉱物学雑誌/第7巻第4号-1965.7「ロウ石鉱床に産出する鉱石の耐火物原料としての検討」福井哲(Satoshi Fukui)/関東窯業株式会社 これは純然たる学術論文であり、化学記号の羅列と分析の叙述で、僕の理解能力を超えている。言えることは、上信鉱山の焼成炉が稼動したのが1957年であり、その論文を発表したのはその8年後、福井氏はすでに関東窯業に籍を置いていたのである。関東窯業は埼玉県さいたま市見沼区深作に現存する。もう一つ、その論文に五島鉱山・金倉鉱山・三石太平鉱山・山口県の某ロウ石鉱山の名称はあるが、残念ながら上信鉱山の文字はない。奇しくも論文発表の2年前に上信鉱山が閉山して、論文の対象にはなり得なかったものと推測できる。 ここで考えるに、事業者であった光山電化の情報が乏しいことである。すでに会社は、終戦と同時にNECを主力とした通信機器の系列メーカーに変身して、社名も変っている。ろう石の面影は全くない。築造工事を請け負った小林氏のように、事業者側に、ろう石を語れる関係者が見つかれば嬉しいのだが、捜す手立てがない。 それにしても、子供の頃に遊んだ、石筆(せきひつ)と呼ばれる、あのろう石を連想したのだが、採掘場でいくら探し回っても見つけられなかった。少し学術的な面で調べてみると、石筆に利用されたものは、滑石(かっせき)という、水酸化マグネシウムとケイ酸塩からなる鉱物で、粘土鉱物の一種である。 ろう石山で発見された動機となった物は、石筆状のものであったかもしれないが、その後枯渇し、耐火煉瓦の原料として採掘された段階では、他の鉱物と混ざりあった岩石の状態で採掘されたものと思われる。 <参考> |