八ッ場ダム/シリーズ12<2019.06.28> <初めに> そして遂に本体のコンクリート打設工事が完了し、式典が6月12日に挙行された。国は水を貯める試験湛水を今秋に始め、来春以降にダムとして使用開始の予定である。昭和27年(1952)に浮上してから、実に70年近い歳月を数えたのである。 <見学行>
放流設備の設置や周辺の工事設備の撤去など作業はまだ続く。
展望スペースの左側から工事用道路が河床に延びている。関係者以外は立入り禁止。左手に八ッ場大橋が見える。青空に飛行機雲と、きのこ雲。
八ッ場大橋を左岸に渡り、見放台に昇る。手摺に解説板が何枚も掲げられているので、大いに参考になる。
クレーン左の建物は管理事務所、手前の横長の構造物がセメント・砂利等のサイトがあったが、不要になったので解体中。左下の斜めの構造物は、山から流れている沢の浸食防止補強された水路である。 削られた山の斜面にはケーブルクレーンがダム上部に張られていたが、鉄柱の脚台が撤去された。そしてブロックで固められている。
ダムの河床部分も工事が行なわれている。ここには仮排水路がある筈だ。いずれそれらは塞ぐことになる。
下の写真は昔、川原湯温泉駅があった所だと思われる。
見放台から上流方面を見ると八ッ場大橋が見える。先程、左側から渡ってきた橋だ。
このように、ダム本体と、交通網については着々と形をなしてきた。 今後は水没予定地周辺の遺跡発掘調査や地元の生活再建事業が続けられる。
諏訪神社は長野県諏訪大社の分社である。戦国時代に信州勢力の支配下にあった名残である。信州高遠石工によって造られた宝篋印塔は、長野原町の重要文化財に指定されている。村中の有志によって文政12年(1829)に建立された。 <生活再建の大きな課題>
児童数が激減し、今春の入学者はゼロだったというショッキングな内容である。分りやすく表にすると次のとおりである。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。最も大きな要因は、過去の政権が自民党から野党政権に移ってダム建設が中止され、水没予定地区の生活再建が滞ってしまったことである。 このことによって、多くの住民が土地を離れることになった。そのために児童数も減ってしまったという三段論法である。 当然のことながら、小学校統廃合論が浮上し、今秋には、意見をまとめるという。このことに付いて、費用負担した下流都県からは「ダムの恩恵を受けるので、地元の要望に応えて小学校建築に協力したのは当たり前のこと。こちらから何か具体的に言える立場にない」。と好意的な見方をしてくれているそうだ。 下の写真は《長野原町立第一小学校百年のあゆみ》から転載したものである。
手前が吾妻川の上流側、奥が下流側で、遠くに川原湯温泉が霞んで見える。写真下の青い屋根が旧校舎である。その左側は旧JR東の線路、右側には旧国道が通っている。写真の左上には、けだかき姿の王城山が見える。 ところで、生活再建で沢山の施設が新築されたが、今後の維持費は住民負担となる。少子高齢化によって財源も減り、大きな課題に地元住民はいつまで翻弄されるのだろうか。 |